| 担当 |
小学4、5年生
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| 出身地 |
静岡県 |
| 得意なポジション |
ウイング |
| 利き足 |
右 (強いキックは左足) |
| 最多リフティング回数 |
1050回 |
| JYSOコーチ暦 |
6年目 |
| サッカーを始めたきっかけ、子供の頃の思い出など |
サッカーを始めたのは11歳の時でした。
中学は静岡県浜松市の北星中学でした。静岡西部地区優勝、県大会はBEST4が最高です。(一つ下の代は全国大会準優勝)。一年生はほとんどボール拾いと
基礎技術、試合のときはどんなに暑くてもグランドの回りに立たされ水も飲まずに声を出さなくてはいけませんでした。この時の監督と先輩は非常に厳しかった
ことを覚えています。
高校は浜松北高校でした。実績は静岡西部地区優勝、県大会は新人戦BEST4が最高です。受験勉強をほとんどせずに3年生までやりましたが、静岡で勝つの
は難しく、ここでほとんど燃え尽きました。ただし、この6年でかなりスパルタなサッカ教育を受けました。
ちなみ兄弟が2人いてみんなサッカーをやっていたため、両親は週末の試合の応援でいそがしかったようです。どの中学、高校にも父母の会があり、当番制で炊
き出しや差し入れでサポートし、また、おそろいの帽子(または傘)をかぶり試合中は横断幕をたてベンチの横で立って応援していました。
信州大学工学部入学。大学1年のとき北信越優勝、インカレ出場、水沼、川勝がいた法政大学に一回戦敗退。後半から出場して水沼にファールをしたことだけを
覚えています。大学2年のときは、北信越優勝、総理大臣杯出場、一回戦の大阪経済大学勝利、また水沼の法政とあたり敗戦(でもBEST16です)。天皇杯
長野代表。大学3年、北信越優勝、総理大臣杯出場、大阪体育大学とあたり一回戦敗退。
社会人では横河HP(ヒュ−レートパッカード)のチームで都リーグ2部でした。1993年12月よりHP社に転籍、現在はHP社からスピンアウトした
AGILENT TECHNOLOGIES に在籍し、高周波部品のプロダクマネージャを担当しています。
自分の中学、高校時代を振り返るとサッカー中心に生活が回っていました。というより半強制的に朝晩の練習をほぼ365日させられていました。
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| サッカーにまつわる何でも自慢話/失敗談 |
大学4年生のときは全国大会には出れませんでしたが、サッカーマガジン主催の菅平でおこなわれた全国同好会大会に4年生だけで出場、準優勝で私はBEST
イレブンに選ばれました。これが唯一の自慢です。
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| 好きな選手 |
中学のころの憧れの選手はヨハン クライフ(オラン
ダ、アヤックス)
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| JYSOのコーチをしていて楽しいと感じるときは? |
JYSOを今まで3年間教えてきて、今年ふと気が付い
たのですが、自分が教えてきた子の中にサイドキックやインステップがまだ上手く蹴れない子がいる。確かに練習中はサッカーを楽しんでいるように見えるので
すが、サッカーの本当の楽しさや厳しさを知っているのか?という疑問が湧いてきました。基礎技術の習得無しにサッカーの奥深さを知ることはできないと思い
ます。また,中学時代までに基礎技術を覚えないとその後のサッカーをやる上で致命傷になりかねません。自分は11歳で始めましたがこれはむしろ遅いぐらい
です。これは後からわかったことですが。
やる気のある子供には基礎技術を習得する場を提供することが、何か自分の“MISSION”のような気がしてきました。自分の教えた子供が上手くなり、将
来、対等に“質の高いサッカーの試合”をするのが楽しみです。
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| 選手へのメッセージ |
シリコンバレーという人種のルツボの中で、サッカーは
言葉や宗教と同じように国民性が現れるスポーツです。サッカーがうまくなることによってこのような多国籍環境のなかでいろいろな国の人とのプレーを楽し
み、また、自分の個性を出し、サッカーを通して自己主張し、目で会話ができるようになりたいものです。言葉が下手でも、サッカーが上手いと一目置かれ、友
人ができます。
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